"反”反出生主義の考え

こんなツイートが話題になっていました




これについて思うことが多々あるので、ブログにてまとめたいと思います




明確な問題点

子供が不幸を感じる→親の責任と考えていること

いじめや事故はともかく、障がい者に生まれること、入試就活で悩むことが不幸であるかという問いは難しいものではありますが、少なくとも彼は産まれたくなかったと思う要因の一つに数えているようです。

これには問題があります

一つ自明なのは、人の感じる幸不幸という極めて主観的な感情を第三者が判断しているということです。


人が何か行動するとき、それは他者に影響を与えることがほとんどで、まったく他人に迷惑をかけずに生きていくことなど不可能です。

もちろんその時その時に自分の行動がどのように、どれほど他人に迷惑をかけてしまうのかを考えることは極めて重要です。例えば自分が電車に乗り、席に座ってしまうことで、ある一人が席に座れなくなってしまいます。しかし、それを気にして電車に乗ること自体をためらう人はほとんどいません。反対に、子供を産むという行為には、パートナーの人生、子供の人生、その他家族、将来子供がかかわる人たちをも巻き込んで、現在から未来にわたってし膨大な量の「迷惑」が生まれてまうことは確かです。


子供がいじめられるかもしれない、あるいはいじめるかもしれない。それ以外にも子供にとって悪い出来事が大なり小なり起こるでしょう。それらは確かに子供を産むことに対しての逆機能、産むことをためらう理由になります。それらについてもしっかりと認識し、判断材料にすることは極めて大切です。



ここで一つ問題提起です。子供を産まないという選択は、将来の不幸がおきないことを担保するとともに、子供が将来感じるはずだった「幸せ」を奪っているとは考えられないでしょうか?

子供が感じる幸不幸を消化するのは子供自身です。親は確かにそれを考えさせるか、全く無視するか(産むか生まないか)を判断する権利を持ちますが、子供が幸せと感じるか、不幸と感じるかまで判断する権利は持っていません。実際、障害を持って生まれた人が「生まれてきてよかった」と感じるか、「生まれてこなければよかった」と考えるかは二分されており、それを判断できるのは当事者のみです。生まれてこなければよかった、ということについて考えるのも結構ですが、生まれてきてよかった、と感じた人の存在を認識しないでよい理由にはなりません。

反出生を支持するのは簡単ですが、これについて考えてからモノを言ってほしいな と思います


人類を滅亡させる権利

もう一つの問題として、人類の滅亡ということが挙げられます。極端な反出生主義者の思想は、不幸が生まれるくらいならば子供を産むなということ。つまりは「この世代で人類を途絶えさせろ!」ということです。これについては、これ以上ない傲慢な思考であると思います。

過去への冒涜

人類は今まで、様々なものを積み重ねて成長してきました。人類そのもののDNAはほとんど変わっていませんが、その文化や技術、医療など、外在的なものについて、これまで生きてきた何千億人もの人類がそれらを積み重ねてきたものであり、そこには過去の人々の情熱や希望、願いが詰まっています。
ガンで願い半ばに死んでいった人たち、戦争で無残に死んでいった人々の多くは、治療法の確立、世界平和を願って死んでいきました。(もちろん、人類滅亡を願った人もいるでしょうが)反出生主義は、明確にそれらを足蹴にし、冒涜するものです。はたして今を生きる人間は、それらを放棄する権利を持つのでしょうか? それについても、今を生きる人、将来生きる人々は考える義務があるのではないでしょうか? 反出生主義者は何も考えないで出産する人々を馬鹿にしますが、今の問題をすべて放棄し、不幸が生まれるなら人類滅亡しちゃえばいいじゃんという思考、これこそ最も盲目的ではないでしょうか。




幸いにもこの国では言論の自由が保障されており、生まれてきた子供が反出生主義を唱えることは全くの自由です。(これ以上の親不孝はありませんが)

私自身は子供を産むことを掲げる「出生主義」ではありません。状況に応じて産むのか産まないのか、検討することが一番大事だと考えています。だからこそ”反”反出生主義について語らせていただきました。
ここまで読んでいただいた方に感謝します。